少女と年の差、ふたまわり。
2018年5月14日
ぷちぱら文庫
著:雑賀匡
画:奥蓮メロ
原作:あかべぇそふとすりぃ
淡々とした人生を送ってきたという自覚はある。
自分の将来について、漠然とした希望や不安を抱いていたこともあった。
だが、実際に歳を重ねていくと、特別にドラマティックなことが起こるわけでもなく、ごく普通の社会人としての日々が待っていた。
強いて他の者と違う点を挙げるとすれば──。
城西雅実の日常は「孤独」が基本ということだろう。
親しい友人は持たず、職場の同僚たちとは適度な距離を保つ。
煩わしい人間関係を排除した、気楽ではあるけれど侘しいひとり暮らし。
健康食品会社の経理として働き、仕事が終わると車で自宅アパートに戻り、ナイター中継を眺めながら、缶ビールとコンビニ弁当で夕食を済ませる。
これといった趣味はなく、時間潰しに漫画を読む程度。
自ら望んでそんな日々を送り、気付くと「オジサン」と呼ばれる歳になっていた。
現在の自分を形成している要因がなにか──と考えた時、やはり幼い頃に事故で両親を失ったことが発端なのだろうと思う。
それまでの生活を一気に失ってしまった喪失感。
暗い部屋で両親を待っていた時の孤独感は、今でも心に強く残ったままだ。
幸いなことに、雅実を引き取ってくれた叔父夫婦はよくしてくれた。
特に同い歳のいとこである青塚臨は、親を亡くした雅実を様々な形で励ましてくれた。
塞いでいた心が徐々に癒やされていったのは、臨がずっと傍にいてくれたおかげであり、彼女の存在が雅実の中で特別なものになるのは自然なことだった。
──このまま一緒に成長した後は……。
密かにそんな夢想を抱き始めていたある日のことだ。
雅実は臨に誘われ、急に水族館に行くことになった。
「なんで水族館?」
「お出かけする場所といえば、水族館でしょ?」
よく分からない理由だったが、とにかく休日に彼女と一緒に出かけた。
ほのかな恋心を抱いていた相手からの誘いだ。断るという選択肢はなかった。
館内を歩く臨はいつも通り明るかったが、休憩するためベンチに座った途端、それまでの態度が嘘のように落ち込んだ表情になった。
「……マサ、ごめん」
「それは、なにに対しての『ごめん』なんだ?」
「マサを代わりに連れて来たこと」
「代わり?」
「本当は一緒に来るはずの人が他にいたんだけど……ドタキャンされちゃったんだよね。なんか急な仕事が入ったみたいで」
「仕事……」
臨に彼氏がいると聞いたのは、その時が初めてだった。
それだけでも十分に衝撃的だったが、相手というのが友達から紹介された──かなり歳上の男だと知ってさらに驚いてしまった。
もう就職して働いているということを教えられ、思わず「どうしてそんな男とつき合っているのか」と問い質すように訊いた。
学生だった頃の感覚では、とても考えられないような相手だったからだ。
「仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだから」
臨の答えに返す言葉がなかった。
正直ショックだったが、恋するいとこを責める気にはなれなかった。
ただ、望んでいた未来がなくなったことがショックだった。
この件が尾を引いたのだろう。
学生時代の雅実は誰ともそういう関係になることがないまま過ごし、初めて恋人と呼べる存在ができたのは、就職して社会人になってからのことだ。
もちろん臨にも報告した。
まるで自分のことのように喜んでくれた彼女は、雅実がずっと密かに抱いていた気持ちに気付いていなかった。もう知ることもないだろう。
そう思うと、なんだか複雑な気持ちになった。
初めてできた恋人とは──まるでチェックシートを埋めていくような交際だった。
デートをして、キスをして、セックスをした。
ひとり暮らしを始めた雅実の部屋で一緒に過ごすことが多くなり、このまま順調にいけば将来は普通に結婚するかもしれない。
そんなことを思い始めた矢先だった。
「私のこと、どうでもよく思ってるでしょ?」
「雅実くんはひとりでいたほうが、誰も傷付けなくて済むよ」
恋人はそんな言葉を残して去って行った。
別れ話を切り出された時、雅実はなにひとつ否定をしなかった。あるいはその通りかもしれないと、ぼんやりと思っただけだった。
べつに一緒にいることが苦痛だったわけではない。
自分なりに恋人を愛していたつもりだった。
ただ、親しくなればなるほど、いつか自分の前から消えてしまうかもしれない──という漠然とした思いがどこかにあり、無意識のうちに壁を作っていたのだろう。
両親を亡くした時に覚えた喪失感。
それが雅実の心にずっとまとわりついたままだった。
誰かを失って悲しむくらいなら、最初からなにも期待しないほうがいい。恋人に指摘されたように、ひとりでいるほうがマシだろう。
その後はずっとそう思って生き続けてきた。
誰とも深くつき合わず、ひとりだけの時間を過ごしてきたのはそれが理由だった。
水香は──そんな雅実に共感したのかもしれない。
@
独身男性が住む1Kアパートに手料理の匂いが漂っていた。
あまり似つかわしくない香りに、なんだか落ち着かない気分になっていた時のことだ。
「雅実、お椀どこにあるの?」
「ああ……出しに行くから待ってろ」
聞こえてきた声に、雅実は座っていた椅子から反射的に腰を浮かせ、ドア一枚を挟んだキッチンへと向かった。
そこには制服の上からエプロンを着けた少女の姿がある。
「わざわざ来なくてもよかったのに」
「口で言っても分かりにくいと思ったんだよ」
そう答えながら食器棚からお椀を出し、ついでとばかりに彼女の手元を覗き込む。
かぐわしい匂いを放っていたのは味噌汁だった。
「ちょっと、覗かないでよ。えっち」
「えっちとはなんだ。ただ料理をしているのを見ただけなのに」
「覗いてることに変わりはないでしょ」
そう言って唇を尖らせる少女──青塚水香の言葉に、雅実は思わず苦笑してしまった。
「それに……なんだか見下ろされている感がいや」
「身長差があるんだから仕方ないだろう」
普段はともかく、近くに寄ると水香の小ささが分かる。
雅実が高身長というわけではなく、彼女が小柄なのだ。頭ひとつ分以上も低い。
セーラー服に包まれた身体はかなり華奢で、胸の膨らみも決して大きいとは言えず──女性として完成するまでには、まだ少し時間がかかるだろう。
「まあ……今はいいよ。私もすぐに成長するし」
「水香は大きくなりたいのか?」
「大きくっていうより、早く大人になりたいかな。今みたいに、お母さんに気を遣わせたりしないように自立したいと思ってる」
微笑ましく感じるが、彼女にとっては切実な望みなのだろう。
まだ明確なビジョンはなくても、母親に楽をさせたい──恩返しをしたいという真剣な思いが伝わってくる。
「それはおいおいだな。誰でも歳を重ねて、色々な経験をして大人になるんだから」
「私も……だよね?」
「そうだな。でもまあ、水香は素敵な大人になれると思うぞ」
「なんの根拠もないと思うんだけど」
「割と本気で言ってるぞ? 俺が水香くらいの歳の頃は、そんなにしっかりしてなかった。当然、料理なんかできなかったしな」
「……雅実に勝ってもなぁ」
「生意気な」
手を伸ばして、水香の頭をくしゃりと撫でる。
彼女は肩をすくめて迷惑そうな顔をしたが、手を払いのけようとはしなかった。
「でも……やっぱり少し新鮮な感じがする」
「なにがだ?」
「こうして、夜に話をしながらご飯を作るのが」
唐突な言葉に疑問符を返すと、水香はそっと微笑みながら答えた。
「……臨は相変わらず忙しいのか?」
「夜に出て行って、朝に帰ってくる生活は変わらないよ。まあ……だからこそ、私がこうして雅実のご飯を作りに来てあげることもできるんだけど」
「その意味ではありがたいことだな」
「私がいない時……寂しかった?」
「そりゃ、寂しかったさ。今日、顔を見た瞬間に抱きしめようと思ったくらいに」
「えっち。変態」
「親愛のハグだよ。今やってやろうか?」
「本当にしたら通報する」
「国家権力を使うのは卑怯だぞ」
「通報されるようなことをしなければいいだけのことでしょ?」
素っ気なく言いながら、水香は味噌汁をお椀に取る。
小さく笑みを浮かべているのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
水香と初めて会ったのは十数年前──。
学校を卒業した後、他県で仕事をしていた時のことだ。
当時、世話になっていた叔父夫婦の家にも滅多に戻らず仕事に没頭していた。特に目的があったわけではないが、とにかく働き続けた。
今から思えば、ひとりで生きていける自信が欲しかったのかもしれない。
そんなある日──臨に呼び出されて地元に戻った雅実は、学生時代からよく利用していた喫茶店で彼女と再会した。
久しぶりに顔を合わせたいとこは、赤ん坊を抱えていた。
「……なんだ、その子は?」
「わたしの子供。水香っていうの」
「臨、結婚したのかっ!?」
「ううん。父親、どこかへ行っちゃった」
「……………………」
苦笑しながらそう言った臨の目を、雅実はまっすぐに見ることができなかった。
おそらく、こんな話をするまでには色々なことがあったのだろう。父親は学生時代からつき合っていた年上の男か──それとも別の人物なのか。
そもそも、どうしていなくなってしまったのか。
訊きたいことは山のようにあったけれど、過去の詮索をしているような場合ではない。
「これからどうするつもりなんだ?」
臨に抱かれ、静かに寝息を立てている赤ん坊に視線を向けながら尋ねた。
「育てる」
「育てるって……おまえ、そんな簡単に……」
「だって、わたしが産んだ子なんだから」
臨が見せた表情は、初めて見る「母親の顔」だった。
その後、彼女は現在も続けているホステスの仕事に就き、雅実に向かって公言した通り、まだ幼かった水香を両親に預けて懸命に働き始めた。
だが、その数年後には父親が──水香が今の学校に入る頃には母親が亡くなった。
雅実が身体を壊して地元に転職したのも、ちょうどその頃のことだ。それを機に臨と顔を合わせる機会が増え、初めて水香を見た喫茶店で話をすることも多くなった。
あまり人と拘わらない雅実にとって、唯一の例外が臨親子だったと言える。
それからさらに何年もの月日が経過し──。
小さかった水香は制服を着るほどまでに成長し、ひとり暮らしを続けている雅実の家へ食事を作りに来てくれるようになっていた。
「さて……片付けをするか」
「いいよ、私がやるから」
食事が終わると同時に腰を上げると、水香が慌てたように制してくる。
だが、最初から最後まで任せっぱなしというのも気が引ける。彼女は善意で食事を作りに来てくれているのだから、歳上として甘えっぱなしというわけにもいかない。
渋る水香をなだめて食器をひとまとめにする。
「じゃあ……その間、漫画読んでていい?」
「ああ、いいぞ」
ひとりの時間を持て余している雅実の部屋には漫画が多い。
立ち上がった水香は本棚に向かい、その中から一冊の単行本を手にして、静かに元いた場所に戻る。彼女が手にしたのは、以前に来た時にも読んでいた作品。
続きが気になっていたのか、すぐに没頭し始めている。
──水香がこの部屋に来たのは、これで何度目かな。
まるでここに住んでいるかのようにリラックスしている姿を見ると、最初に訪れた際、少し緊張していたのが嘘のようだ。
「ふぁ……」
食器を洗って戻ると、ちょうど水香が小さく欠伸をしているところだった。
「なんだ、眠いのか?」
「そういうわけじゃないけど……って、立ってないで座れば?」
「ああ、そうだな」
促されてパソコンデスクの椅子に腰を下ろす。
ベッドを背もたれにして座る水香からは、少し離れた位置だ。
「前から思ってたけど、私がいる時はいつもそこだね」
「ここからでもテレビは見えるからな」
「でも少し遠いんじゃない? こっちに来ればいいのに」
「ここって……水香の膝の上か?」
「通報」
「一言で脅しやがって」
「これ、効果的だね」
水香は楽しそうに笑いながら、漫画のページをめくった。
「ふふっ、さっきも言ったけど……こうやって夜に誰かと話すのって新鮮な気がする」
「それは俺も同じだ」
ひとり暮らしの弊害で、休日などは終日一言も喋らないことがある。
部屋で誰かと会話をするのは不思議な感じだ。
「雅実はひとりの時はなにをしてるの?」
「漫画を読んだり、テレビを観たり……かな」
「私とほとんど同じだね」
「似た者同士だな。俺たちはきっと相性がいいぞ」
「そう言われるとなんか微妙」
そう言って水香が子供っぽく微笑む。
家にひとりでいる時は、きっとこんな顔で笑ったりしないのだろう。
「でも……なんか、お互い寂しい感じだね」
「水香もひとりの時は寂しいと感じるのか?」
「そうは言ってないでしょ。寂しい『感じ』だもん」
同じことではないかと思うのだが、彼女は「全然違う」と言い張り、会話を切るようにして手元の漫画に視線を落とした。
「そうだな……寂しいと思ってるのは俺だけか」
「うん。そう思うから、いてあげてるんだよ」
水香の偉そうな物言いに思わず苦笑してしまう。
──まあ、上から目線なのは俺も同じか。
本当は慣れているせいもあって、ひとりのほうが気楽に過ごすことができる。
それなのに「寂しい」と嘘を吐いてみせるのは、彼女自身が寂しさを隠そうとしていると推測しているからだ。
「また、今回みたいにご飯を作りに来てあげるからね」
「ああ……楽しみにしてる」
雅実はそう答えながらテレビをつけた。
水香の邪魔にならないようボリュームを絞って、ぼんやりと画面を眺める。
互いに別々のことをしているのに、室内にはなんとなく安らいだ雰囲気が漂う。
時折、テレビの音声に混じり、ページをめくる音とともに、彼女のかすかな息遣いが聞こえてくる。本当にこの感覚は新鮮だった。
ひとりが気楽であることは間違いないが、水香の存在はまったく邪魔にならない。
それどころか、なんだか安心できるような気がした。
「ん……おい、水香?」
しばらくテレビを観ているうちに、いつの間にかページをめくる音が消えている。
もしやと思って視線を向けると──水香が床に転がった状態で眠っていた。
「そういや、少し眠そうだったな」
小さく溜め息を吐きながら、無防備な姿で眠る姿を眺めた。
親子だけあって、昔の臨によく似ている。同じ家で暮らしていた時、彼女もこうやってうたた寝をしていたものだ。
「おーい、水香。寝るなら家に帰って寝ろよ。送っていくぞ」
「んん……やぁ……もうちょっと……」
寝ぼけているのか、水香はむずかるようにもぞもぞと身体を動かした。
聞こえてくる静かな寝息。
その規則正しい響きは、ここ数年、雅実が耳にすることがなかったものだ。それを聞きながら、ふと先ほどの水香の言葉を思い出す。
すぐに否定していたが、彼女は『お互い寂しい感じだね』と言っていた。
やはり推測に間違いはないと思う。
──少しお節介かもしれないけど……。
雅実は水香の寝顔を眺めながら、起きたらひとつ提案してみようと思った。
@
それから一時間ほどが経過した頃。
寝息を立てていた水香が小さく動く気配を感じ、振り返る。
「おう、お目覚めか?」
「……ごめん、寝ちゃってた」
水香はゆっくりと身体を起こすと、チラリと時計を見て深く息を吐く。
「結構、寝ちゃってたみたいだね。遅くなっちゃったけど……あまり長居をしても雅実に迷惑だろうし、そろそろ帰るよ」
「ここに泊まればいい」
やはりお節介かもしれない。
そう思いつつも、言わなければ気になると考えて口を開く。
「え……? それって帰らなくてもいいってこと?」
雅実の言葉に、水香はきょとんとした顔をする。予想外のことを言われてしまい、どう受け止めていいのか分からないような感じだ。
なので、決断を促すために例の言葉を口にする。
「水香が帰ると寂しいじゃないか」
「……………………」
少しわざとらしすぎたためか、彼女がジッと見つめてきた。
眠気が消えたであろう、いつもの眼差し。
それが不意に逸らされた。
「……雅実は本当に寂しがり屋だね」
「まあな。恥ずかしい話だが、確かにそうかもしれないな」
「だったら仕方ないな。雅実がどうしてもっていうのなら、いてあげてもいいよ」
またしても上からの言葉だったが、了承の言葉に少し安堵する。
自己満足に過ぎないけれど、これで彼女をひとりにしないで済む──と。
「でも、それなら寝る時の服を貸してね。着替えを持ってないから」
「もちろん。制服のまま寝せるわけにはいかないからな」
「それから歯ブラシとかも」
「ああ……そうか、そういうのも必要だな」
アパートの下にはコンビニがあるため、入用なものを調達してくるかと財布を手にする。
「だったら、私も行く」
「すぐ戻ってくるぞ?」
「自分で使うものは自分で買うし……それに、雅実には頼めないものだってあるから」
視線を逸らしながらの言葉に納得する。
確かに下着などは、雅実では購入することができないだろう。
「雅実、上がったよ」
ビールを飲みながら、ぼんやりテレビを眺めていると──水香が浴室から戻ってきた。 やはり女の子だけあって、雅実より入浴時間がかなり長い。
「随分とゆっくりだったな」
「そう? 早く出たつもりだったんだけど」
小首を傾げた彼女は、ぶかぶかのパジャマに身を包んでいる。
「……さすがにサイズは合わなかったな」
「仕方ないよ、雅実のだもん。まあ……べつにいいけどね。ゆとりがあるから着てて楽。ていうか、これ新品みたいなんだけど」
「買ってから、ほとんど使ってなかったからな」
「なんで着なかったの?」
「Tシャツのほうが楽だったから」
「ふうん……なんかもったいないね」
水香はぼんやりと答えながら、ドライヤーの電源を入れて髪を乾かし始める。
なんというか、女の子らしい仕草だった。
「雅実も入ってきて。お湯が冷めちゃうから」
「ああ、そうするよ」
浴室に向かいかけ──思い直して着替えを準備した。
さすがに、いつものような全裸姿で戻ってくるわけにはいかない。
普段よりも少しゆっくり湯に浸かり、しっかりと服を着て戻ってくると、水香はベッドの縁にもたれて漫画の続きを読んでいた。
来るたびに読んでいる漫画も、すでに十巻目に入っている。
それだけ何度もこの部屋を訪れているという証拠だ。
「それ、おもしろいか?」
「うん……結構好き。一晩中でも読めそう」
「そんなに夜更かしはできないだろう」
明日は土曜日で学校も休みだ。だからこそ水香を泊める気になったのだが、あまり遅くまで起きているのも問題だろう。
「そういえば……私はどこで寝ればいいの?」
「そりゃ、ベッドだろう」
「私がベッドなら、雅実はどうするの?」
「床だ」
当然のつもりで答えたが、待っていたのは不機嫌そうな表情だった。
「それはダメだと思う。雅実がベッドでしょ?」
「俺の寝床は加齢臭がするから嫌か?」
「そんなこと言ってないでしょ。私だけがベッドなんて申しわけないよ」
「だったら、一緒に寝るか?」
「……通報!」
照れ隠しなのか語尾が上がる。
「だからさ、俺の案が一番だってことだ」
「…………分かった」
雅実に譲る気がないことを察したのか、水香は不満そうにしながらも頷いた。
「じゃあ、ベッドのお礼に、明日の朝ご飯も作るから」
「そんなの気にしなくてもいいのに」
「私、朝は自分で作らないと落ち着かないの」
「……じゃあ、頼むかな」
折れてみせるとようやく納得したのか、水香は再び漫画のページをめくり始めた。
一度寝ているために目が冴えているのかと思ったが、いつも規則正しい生活をしているためか、午後十一時近くなると再び眠気に襲われたようだ。
しきりと欠伸を始めた。
「そろそろ寝るか?」
「……うん」
水香が漫画を本棚に戻している間に、雅実は自分の寝床を整えた。
冬用の予備の毛布を引っ張り出して床に敷いただけだが、まだ初秋のこの季節なら寒いということもないだろう。水香がベッドに入るのを見届け、灯りを消そうと電灯から伸びる紐に手をかけた時のことだ。
「どうした? トイレか?」
なにか言いたげな目で、水香がジッと見ていることに気付いた。
「ううん、違う」
「じゃあ……やっぱりベッドは嫌とか」
「それはもう諦めた。ただ、その……えっと……」
ここまで躊躇するのもめずらしい。
「ごめん、なんでもない。いいよ……電気消しても」
「あ、ああ」
怪訝に思いながらも灯りを消そうとすると、彼女が小さく身構えるのが分かった。
「……もしかして、暗いところがダメなのか?」
「そ、そんなんじゃ……ないもん」
雅実の問いかけに、水香は明らかに動揺したように視線を逸らす。
「こら、真面目に答えろ。暗所恐怖症とか?」
「普通の暗いのは平気だけど、寝る時に真っ暗なのは嫌。その……なんだか、すごく心細くなるような気がして……」
気弱そうな声で答える水香に、雅実は強く共感した。
「面倒だな。俺と同じで」
「……え?」
「よし、電気を消すぞ」
電灯の紐を掴み直すと、水香が覚悟を決めるように小さく肩を跳ねさせた。その様子を苦笑して眺めながら紐を引いて──豆電球が点いた状態にする。
「……あれ?」
「実は、俺も水香と同じで真っ暗だと眠れないんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ……落ち着かなくて心細い」
これは彼女に合わせるための嘘ではなく本当のことだ。
夜寝る時は決して真っ暗にはせず、ぼんやりとした豆電球の下で眠っている。
部屋を暗くして眠ると、子供の頃の不安だった夜を思い出してしまうからだ。
両親が帰ってこなかったあの夜のことを──。
「いい歳をして情けないだろう?」
「そんなことないと思う」
詳しい理由を説明しなかったが、水香は雅実を否定しなかった。むしろ安堵の感情も交ざった優しい笑みを浮かべてみせる。
「暗い中で眠れないのは、私も同じだしね」
「……気が合うな」
「だから、そう言われると微妙な気分」
水香は苦笑しながらベッドに横たわる。
体型からすると広すぎるのか、少し落ち着かないようだ。薄灯りの中、もぞもぞと位置を変える彼女を眺め、雅実も床に敷いた毛布の上に寝転んだ。
さすがに寝心地は悪かったが、眠れないということもない。
「ねえ、雅実」
目を閉じると同時に、水香の躊躇いがちな声が聞こえてきた。
「どうした?」
「雅実……よく私に『寂しいから』って言うけど、それって嘘でしょ?」
不意に投げかけられた質問。
わずかに心が揺れたが、目を閉じたままできるだけ平坦な口調で答える。
「嘘じゃない。このオッサンは寂しがり屋なんだ」
「……本当に? 私に気を遣ってるんじゃなくて?」
「生憎と、甲斐性のない俺は自分のことで精いっぱいだ。あと、豆電球をつけないと心細くて眠れないというのもマジだ」
半分は嘘で、半分は事実。
納得したのかどうか分からないが、水香は「そっか」と小さく呟くように言った。
──歳下の女の子にバレてるようではまだまだだな。
自嘲しながら話題を変えるための言葉を探す。
「水香、明日は休みだが……なにか予定はあるのか?」
「特にない。家に戻って、いつも通りお母さんのご飯を作るって感じかな」
「臨とどこかへ出かけたりはしないのか?」
「いつも忙しそうだからね。たまに時間を作ってくれる時もあるけど……疲れてるみたいだから、ちょっと申しわけない感じ。仕事のない時は家で休んで欲しいから」
「……………………」
どうやら、想像していた以上に親子の時間を持てていないようだ。
以前、臨から「娘に対して罪悪感を覚えている」と聞かされたことがある。彼女は彼女なりに精いっぱい頑張っているのだが、どうしても行き届かない部分もある。
夜はひとりにさせているし、家事もすべて水香に頼りきりだ。
母親としては心苦しい限りなのだろう。
だが、水香はそのあたりをちゃんと理解している。友達と遊びたいであろう年頃なのに、わがままや文句も言わず、臨を支え続けているのだ。
「あー、水香は知ってると思うが、俺も休みの日は特に予定がない。暇だ」
「……どうしたの、急に?」
「だから、俺でいいというのなら……どこかへ遊びに行ってもいいぞ」
気付くとそんなことを口にしていた。
しっかりと言葉を纏めてから話しかけたわけではなかったので、なんだか安っぽいナンパでもしているような感じだ。妙に気恥ずかしくなってしまう。
「そりゃ、家でゴロゴロしているよりはいいけど」
「少しくらいの遠出でもいい」
「……変なわがまま言うかもよ?」
ベッドの上で身体を起こした水香の声が、少しずつ期待に膨らんでいくのを感じる。
できることなら、その「わがまま」を聞いてやりたいと思っての提案だ。
「俺が応えてやれることならな」
「じゃあ……暇な雅実と一緒に出かけてあげようかな」
水香はクスッと嬉しそうな笑い声を漏らす。
「でも、どこへ行くの?」
「そうだな……」
不意に思いついてのことだったので、改めて問われると困ってしまう。
あれこれと考えた末に思いついたのは──。
「水族館とか、どうだ?」
「なんの伏線もない場所だね。どうして水族館なの?」
「出かける場所としては定番だろう」
昔、臨が言っていたことを思い出し、そう説明する。
「水族館では嫌か?」
「ううん、行ったことがないから見てみたい」
水香の言葉は少し意外だった。
一度くらいは臨が連れて行ったかと思っていたのだ。
「でも、着替えもないし、お母さんのご飯も作らなきゃならないから……」
「だったら、一度水香の家に戻ってからだな」
「うん」
「そうと決まったら、さっさと寝るぞ」
「はーい。おやすみ……雅実」
「おやすみ」
改めて目を閉じると、水香がごそごそとベッドに潜り込む気配がした。
誰かに「おやすみ」と言うのは、いつ以来のことだろうか。
妙な安堵感を覚え──なんだか今夜は、いつもよりぐっすりと眠れるような気がした。
この続きは、5月23日発売のぷちぱら文庫『少女と年の差、ふたまわり。』でお楽しみください!!
(C)TASUKU SAIKA/AKABEiSOFT3
自分の将来について、漠然とした希望や不安を抱いていたこともあった。
だが、実際に歳を重ねていくと、特別にドラマティックなことが起こるわけでもなく、ごく普通の社会人としての日々が待っていた。
強いて他の者と違う点を挙げるとすれば──。
城西雅実の日常は「孤独」が基本ということだろう。
親しい友人は持たず、職場の同僚たちとは適度な距離を保つ。
煩わしい人間関係を排除した、気楽ではあるけれど侘しいひとり暮らし。
健康食品会社の経理として働き、仕事が終わると車で自宅アパートに戻り、ナイター中継を眺めながら、缶ビールとコンビニ弁当で夕食を済ませる。
これといった趣味はなく、時間潰しに漫画を読む程度。
自ら望んでそんな日々を送り、気付くと「オジサン」と呼ばれる歳になっていた。
現在の自分を形成している要因がなにか──と考えた時、やはり幼い頃に事故で両親を失ったことが発端なのだろうと思う。
それまでの生活を一気に失ってしまった喪失感。
暗い部屋で両親を待っていた時の孤独感は、今でも心に強く残ったままだ。
幸いなことに、雅実を引き取ってくれた叔父夫婦はよくしてくれた。
特に同い歳のいとこである青塚臨は、親を亡くした雅実を様々な形で励ましてくれた。
塞いでいた心が徐々に癒やされていったのは、臨がずっと傍にいてくれたおかげであり、彼女の存在が雅実の中で特別なものになるのは自然なことだった。
──このまま一緒に成長した後は……。
密かにそんな夢想を抱き始めていたある日のことだ。
雅実は臨に誘われ、急に水族館に行くことになった。
「なんで水族館?」
「お出かけする場所といえば、水族館でしょ?」
よく分からない理由だったが、とにかく休日に彼女と一緒に出かけた。
ほのかな恋心を抱いていた相手からの誘いだ。断るという選択肢はなかった。
館内を歩く臨はいつも通り明るかったが、休憩するためベンチに座った途端、それまでの態度が嘘のように落ち込んだ表情になった。
「……マサ、ごめん」
「それは、なにに対しての『ごめん』なんだ?」
「マサを代わりに連れて来たこと」
「代わり?」
「本当は一緒に来るはずの人が他にいたんだけど……ドタキャンされちゃったんだよね。なんか急な仕事が入ったみたいで」
「仕事……」
臨に彼氏がいると聞いたのは、その時が初めてだった。
それだけでも十分に衝撃的だったが、相手というのが友達から紹介された──かなり歳上の男だと知ってさらに驚いてしまった。
もう就職して働いているということを教えられ、思わず「どうしてそんな男とつき合っているのか」と問い質すように訊いた。
学生だった頃の感覚では、とても考えられないような相手だったからだ。
「仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだから」
臨の答えに返す言葉がなかった。
正直ショックだったが、恋するいとこを責める気にはなれなかった。
ただ、望んでいた未来がなくなったことがショックだった。
この件が尾を引いたのだろう。
学生時代の雅実は誰ともそういう関係になることがないまま過ごし、初めて恋人と呼べる存在ができたのは、就職して社会人になってからのことだ。
もちろん臨にも報告した。
まるで自分のことのように喜んでくれた彼女は、雅実がずっと密かに抱いていた気持ちに気付いていなかった。もう知ることもないだろう。
そう思うと、なんだか複雑な気持ちになった。
初めてできた恋人とは──まるでチェックシートを埋めていくような交際だった。
デートをして、キスをして、セックスをした。
ひとり暮らしを始めた雅実の部屋で一緒に過ごすことが多くなり、このまま順調にいけば将来は普通に結婚するかもしれない。
そんなことを思い始めた矢先だった。
「私のこと、どうでもよく思ってるでしょ?」
「雅実くんはひとりでいたほうが、誰も傷付けなくて済むよ」
恋人はそんな言葉を残して去って行った。
別れ話を切り出された時、雅実はなにひとつ否定をしなかった。あるいはその通りかもしれないと、ぼんやりと思っただけだった。
べつに一緒にいることが苦痛だったわけではない。
自分なりに恋人を愛していたつもりだった。
ただ、親しくなればなるほど、いつか自分の前から消えてしまうかもしれない──という漠然とした思いがどこかにあり、無意識のうちに壁を作っていたのだろう。
両親を亡くした時に覚えた喪失感。
それが雅実の心にずっとまとわりついたままだった。
誰かを失って悲しむくらいなら、最初からなにも期待しないほうがいい。恋人に指摘されたように、ひとりでいるほうがマシだろう。
その後はずっとそう思って生き続けてきた。
誰とも深くつき合わず、ひとりだけの時間を過ごしてきたのはそれが理由だった。
水香は──そんな雅実に共感したのかもしれない。
@
独身男性が住む1Kアパートに手料理の匂いが漂っていた。
あまり似つかわしくない香りに、なんだか落ち着かない気分になっていた時のことだ。
「雅実、お椀どこにあるの?」
「ああ……出しに行くから待ってろ」
聞こえてきた声に、雅実は座っていた椅子から反射的に腰を浮かせ、ドア一枚を挟んだキッチンへと向かった。
そこには制服の上からエプロンを着けた少女の姿がある。
「わざわざ来なくてもよかったのに」
「口で言っても分かりにくいと思ったんだよ」
そう答えながら食器棚からお椀を出し、ついでとばかりに彼女の手元を覗き込む。
かぐわしい匂いを放っていたのは味噌汁だった。
「ちょっと、覗かないでよ。えっち」
「えっちとはなんだ。ただ料理をしているのを見ただけなのに」
「覗いてることに変わりはないでしょ」
そう言って唇を尖らせる少女──青塚水香の言葉に、雅実は思わず苦笑してしまった。
「それに……なんだか見下ろされている感がいや」
「身長差があるんだから仕方ないだろう」
普段はともかく、近くに寄ると水香の小ささが分かる。
雅実が高身長というわけではなく、彼女が小柄なのだ。頭ひとつ分以上も低い。
セーラー服に包まれた身体はかなり華奢で、胸の膨らみも決して大きいとは言えず──女性として完成するまでには、まだ少し時間がかかるだろう。
「まあ……今はいいよ。私もすぐに成長するし」
「水香は大きくなりたいのか?」
「大きくっていうより、早く大人になりたいかな。今みたいに、お母さんに気を遣わせたりしないように自立したいと思ってる」
微笑ましく感じるが、彼女にとっては切実な望みなのだろう。
まだ明確なビジョンはなくても、母親に楽をさせたい──恩返しをしたいという真剣な思いが伝わってくる。
「それはおいおいだな。誰でも歳を重ねて、色々な経験をして大人になるんだから」
「私も……だよね?」
「そうだな。でもまあ、水香は素敵な大人になれると思うぞ」
「なんの根拠もないと思うんだけど」
「割と本気で言ってるぞ? 俺が水香くらいの歳の頃は、そんなにしっかりしてなかった。当然、料理なんかできなかったしな」
「……雅実に勝ってもなぁ」
「生意気な」
手を伸ばして、水香の頭をくしゃりと撫でる。
彼女は肩をすくめて迷惑そうな顔をしたが、手を払いのけようとはしなかった。
「でも……やっぱり少し新鮮な感じがする」
「なにがだ?」
「こうして、夜に話をしながらご飯を作るのが」
唐突な言葉に疑問符を返すと、水香はそっと微笑みながら答えた。
「……臨は相変わらず忙しいのか?」
「夜に出て行って、朝に帰ってくる生活は変わらないよ。まあ……だからこそ、私がこうして雅実のご飯を作りに来てあげることもできるんだけど」
「その意味ではありがたいことだな」
「私がいない時……寂しかった?」
「そりゃ、寂しかったさ。今日、顔を見た瞬間に抱きしめようと思ったくらいに」
「えっち。変態」
「親愛のハグだよ。今やってやろうか?」
「本当にしたら通報する」
「国家権力を使うのは卑怯だぞ」
「通報されるようなことをしなければいいだけのことでしょ?」
素っ気なく言いながら、水香は味噌汁をお椀に取る。
小さく笑みを浮かべているのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
水香と初めて会ったのは十数年前──。
学校を卒業した後、他県で仕事をしていた時のことだ。
当時、世話になっていた叔父夫婦の家にも滅多に戻らず仕事に没頭していた。特に目的があったわけではないが、とにかく働き続けた。
今から思えば、ひとりで生きていける自信が欲しかったのかもしれない。
そんなある日──臨に呼び出されて地元に戻った雅実は、学生時代からよく利用していた喫茶店で彼女と再会した。
久しぶりに顔を合わせたいとこは、赤ん坊を抱えていた。
「……なんだ、その子は?」
「わたしの子供。水香っていうの」
「臨、結婚したのかっ!?」
「ううん。父親、どこかへ行っちゃった」
「……………………」
苦笑しながらそう言った臨の目を、雅実はまっすぐに見ることができなかった。
おそらく、こんな話をするまでには色々なことがあったのだろう。父親は学生時代からつき合っていた年上の男か──それとも別の人物なのか。
そもそも、どうしていなくなってしまったのか。
訊きたいことは山のようにあったけれど、過去の詮索をしているような場合ではない。
「これからどうするつもりなんだ?」
臨に抱かれ、静かに寝息を立てている赤ん坊に視線を向けながら尋ねた。
「育てる」
「育てるって……おまえ、そんな簡単に……」
「だって、わたしが産んだ子なんだから」
臨が見せた表情は、初めて見る「母親の顔」だった。
その後、彼女は現在も続けているホステスの仕事に就き、雅実に向かって公言した通り、まだ幼かった水香を両親に預けて懸命に働き始めた。
だが、その数年後には父親が──水香が今の学校に入る頃には母親が亡くなった。
雅実が身体を壊して地元に転職したのも、ちょうどその頃のことだ。それを機に臨と顔を合わせる機会が増え、初めて水香を見た喫茶店で話をすることも多くなった。
あまり人と拘わらない雅実にとって、唯一の例外が臨親子だったと言える。
それからさらに何年もの月日が経過し──。
小さかった水香は制服を着るほどまでに成長し、ひとり暮らしを続けている雅実の家へ食事を作りに来てくれるようになっていた。
「さて……片付けをするか」
「いいよ、私がやるから」
食事が終わると同時に腰を上げると、水香が慌てたように制してくる。
だが、最初から最後まで任せっぱなしというのも気が引ける。彼女は善意で食事を作りに来てくれているのだから、歳上として甘えっぱなしというわけにもいかない。
渋る水香をなだめて食器をひとまとめにする。
「じゃあ……その間、漫画読んでていい?」
「ああ、いいぞ」
ひとりの時間を持て余している雅実の部屋には漫画が多い。
立ち上がった水香は本棚に向かい、その中から一冊の単行本を手にして、静かに元いた場所に戻る。彼女が手にしたのは、以前に来た時にも読んでいた作品。
続きが気になっていたのか、すぐに没頭し始めている。
──水香がこの部屋に来たのは、これで何度目かな。
まるでここに住んでいるかのようにリラックスしている姿を見ると、最初に訪れた際、少し緊張していたのが嘘のようだ。
「ふぁ……」
食器を洗って戻ると、ちょうど水香が小さく欠伸をしているところだった。
「なんだ、眠いのか?」
「そういうわけじゃないけど……って、立ってないで座れば?」
「ああ、そうだな」
促されてパソコンデスクの椅子に腰を下ろす。
ベッドを背もたれにして座る水香からは、少し離れた位置だ。
「前から思ってたけど、私がいる時はいつもそこだね」
「ここからでもテレビは見えるからな」
「でも少し遠いんじゃない? こっちに来ればいいのに」
「ここって……水香の膝の上か?」
「通報」
「一言で脅しやがって」
「これ、効果的だね」
水香は楽しそうに笑いながら、漫画のページをめくった。
「ふふっ、さっきも言ったけど……こうやって夜に誰かと話すのって新鮮な気がする」
「それは俺も同じだ」
ひとり暮らしの弊害で、休日などは終日一言も喋らないことがある。
部屋で誰かと会話をするのは不思議な感じだ。
「雅実はひとりの時はなにをしてるの?」
「漫画を読んだり、テレビを観たり……かな」
「私とほとんど同じだね」
「似た者同士だな。俺たちはきっと相性がいいぞ」
「そう言われるとなんか微妙」
そう言って水香が子供っぽく微笑む。
家にひとりでいる時は、きっとこんな顔で笑ったりしないのだろう。
「でも……なんか、お互い寂しい感じだね」
「水香もひとりの時は寂しいと感じるのか?」
「そうは言ってないでしょ。寂しい『感じ』だもん」
同じことではないかと思うのだが、彼女は「全然違う」と言い張り、会話を切るようにして手元の漫画に視線を落とした。
「そうだな……寂しいと思ってるのは俺だけか」
「うん。そう思うから、いてあげてるんだよ」
水香の偉そうな物言いに思わず苦笑してしまう。
──まあ、上から目線なのは俺も同じか。
本当は慣れているせいもあって、ひとりのほうが気楽に過ごすことができる。
それなのに「寂しい」と嘘を吐いてみせるのは、彼女自身が寂しさを隠そうとしていると推測しているからだ。
「また、今回みたいにご飯を作りに来てあげるからね」
「ああ……楽しみにしてる」
雅実はそう答えながらテレビをつけた。
水香の邪魔にならないようボリュームを絞って、ぼんやりと画面を眺める。
互いに別々のことをしているのに、室内にはなんとなく安らいだ雰囲気が漂う。
時折、テレビの音声に混じり、ページをめくる音とともに、彼女のかすかな息遣いが聞こえてくる。本当にこの感覚は新鮮だった。
ひとりが気楽であることは間違いないが、水香の存在はまったく邪魔にならない。
それどころか、なんだか安心できるような気がした。
「ん……おい、水香?」
しばらくテレビを観ているうちに、いつの間にかページをめくる音が消えている。
もしやと思って視線を向けると──水香が床に転がった状態で眠っていた。
「そういや、少し眠そうだったな」
小さく溜め息を吐きながら、無防備な姿で眠る姿を眺めた。
親子だけあって、昔の臨によく似ている。同じ家で暮らしていた時、彼女もこうやってうたた寝をしていたものだ。
「おーい、水香。寝るなら家に帰って寝ろよ。送っていくぞ」
「んん……やぁ……もうちょっと……」
寝ぼけているのか、水香はむずかるようにもぞもぞと身体を動かした。
聞こえてくる静かな寝息。
その規則正しい響きは、ここ数年、雅実が耳にすることがなかったものだ。それを聞きながら、ふと先ほどの水香の言葉を思い出す。
すぐに否定していたが、彼女は『お互い寂しい感じだね』と言っていた。
やはり推測に間違いはないと思う。
──少しお節介かもしれないけど……。
雅実は水香の寝顔を眺めながら、起きたらひとつ提案してみようと思った。
@
それから一時間ほどが経過した頃。
寝息を立てていた水香が小さく動く気配を感じ、振り返る。
「おう、お目覚めか?」
「……ごめん、寝ちゃってた」
水香はゆっくりと身体を起こすと、チラリと時計を見て深く息を吐く。
「結構、寝ちゃってたみたいだね。遅くなっちゃったけど……あまり長居をしても雅実に迷惑だろうし、そろそろ帰るよ」
「ここに泊まればいい」
やはりお節介かもしれない。
そう思いつつも、言わなければ気になると考えて口を開く。
「え……? それって帰らなくてもいいってこと?」
雅実の言葉に、水香はきょとんとした顔をする。予想外のことを言われてしまい、どう受け止めていいのか分からないような感じだ。
なので、決断を促すために例の言葉を口にする。
「水香が帰ると寂しいじゃないか」
「……………………」
少しわざとらしすぎたためか、彼女がジッと見つめてきた。
眠気が消えたであろう、いつもの眼差し。
それが不意に逸らされた。
「……雅実は本当に寂しがり屋だね」
「まあな。恥ずかしい話だが、確かにそうかもしれないな」
「だったら仕方ないな。雅実がどうしてもっていうのなら、いてあげてもいいよ」
またしても上からの言葉だったが、了承の言葉に少し安堵する。
自己満足に過ぎないけれど、これで彼女をひとりにしないで済む──と。
「でも、それなら寝る時の服を貸してね。着替えを持ってないから」
「もちろん。制服のまま寝せるわけにはいかないからな」
「それから歯ブラシとかも」
「ああ……そうか、そういうのも必要だな」
アパートの下にはコンビニがあるため、入用なものを調達してくるかと財布を手にする。
「だったら、私も行く」
「すぐ戻ってくるぞ?」
「自分で使うものは自分で買うし……それに、雅実には頼めないものだってあるから」
視線を逸らしながらの言葉に納得する。
確かに下着などは、雅実では購入することができないだろう。
「雅実、上がったよ」
ビールを飲みながら、ぼんやりテレビを眺めていると──水香が浴室から戻ってきた。 やはり女の子だけあって、雅実より入浴時間がかなり長い。
「随分とゆっくりだったな」
「そう? 早く出たつもりだったんだけど」
小首を傾げた彼女は、ぶかぶかのパジャマに身を包んでいる。
「……さすがにサイズは合わなかったな」
「仕方ないよ、雅実のだもん。まあ……べつにいいけどね。ゆとりがあるから着てて楽。ていうか、これ新品みたいなんだけど」
「買ってから、ほとんど使ってなかったからな」
「なんで着なかったの?」
「Tシャツのほうが楽だったから」
「ふうん……なんかもったいないね」
水香はぼんやりと答えながら、ドライヤーの電源を入れて髪を乾かし始める。
なんというか、女の子らしい仕草だった。
「雅実も入ってきて。お湯が冷めちゃうから」
「ああ、そうするよ」
浴室に向かいかけ──思い直して着替えを準備した。
さすがに、いつものような全裸姿で戻ってくるわけにはいかない。
普段よりも少しゆっくり湯に浸かり、しっかりと服を着て戻ってくると、水香はベッドの縁にもたれて漫画の続きを読んでいた。
来るたびに読んでいる漫画も、すでに十巻目に入っている。
それだけ何度もこの部屋を訪れているという証拠だ。
「それ、おもしろいか?」
「うん……結構好き。一晩中でも読めそう」
「そんなに夜更かしはできないだろう」
明日は土曜日で学校も休みだ。だからこそ水香を泊める気になったのだが、あまり遅くまで起きているのも問題だろう。
「そういえば……私はどこで寝ればいいの?」
「そりゃ、ベッドだろう」
「私がベッドなら、雅実はどうするの?」
「床だ」
当然のつもりで答えたが、待っていたのは不機嫌そうな表情だった。
「それはダメだと思う。雅実がベッドでしょ?」
「俺の寝床は加齢臭がするから嫌か?」
「そんなこと言ってないでしょ。私だけがベッドなんて申しわけないよ」
「だったら、一緒に寝るか?」
「……通報!」
照れ隠しなのか語尾が上がる。
「だからさ、俺の案が一番だってことだ」
「…………分かった」
雅実に譲る気がないことを察したのか、水香は不満そうにしながらも頷いた。
「じゃあ、ベッドのお礼に、明日の朝ご飯も作るから」
「そんなの気にしなくてもいいのに」
「私、朝は自分で作らないと落ち着かないの」
「……じゃあ、頼むかな」
折れてみせるとようやく納得したのか、水香は再び漫画のページをめくり始めた。
一度寝ているために目が冴えているのかと思ったが、いつも規則正しい生活をしているためか、午後十一時近くなると再び眠気に襲われたようだ。
しきりと欠伸を始めた。
「そろそろ寝るか?」
「……うん」
水香が漫画を本棚に戻している間に、雅実は自分の寝床を整えた。
冬用の予備の毛布を引っ張り出して床に敷いただけだが、まだ初秋のこの季節なら寒いということもないだろう。水香がベッドに入るのを見届け、灯りを消そうと電灯から伸びる紐に手をかけた時のことだ。
「どうした? トイレか?」
なにか言いたげな目で、水香がジッと見ていることに気付いた。
「ううん、違う」
「じゃあ……やっぱりベッドは嫌とか」
「それはもう諦めた。ただ、その……えっと……」
ここまで躊躇するのもめずらしい。
「ごめん、なんでもない。いいよ……電気消しても」
「あ、ああ」
怪訝に思いながらも灯りを消そうとすると、彼女が小さく身構えるのが分かった。
「……もしかして、暗いところがダメなのか?」
「そ、そんなんじゃ……ないもん」
雅実の問いかけに、水香は明らかに動揺したように視線を逸らす。
「こら、真面目に答えろ。暗所恐怖症とか?」
「普通の暗いのは平気だけど、寝る時に真っ暗なのは嫌。その……なんだか、すごく心細くなるような気がして……」
気弱そうな声で答える水香に、雅実は強く共感した。
「面倒だな。俺と同じで」
「……え?」
「よし、電気を消すぞ」
電灯の紐を掴み直すと、水香が覚悟を決めるように小さく肩を跳ねさせた。その様子を苦笑して眺めながら紐を引いて──豆電球が点いた状態にする。
「……あれ?」
「実は、俺も水香と同じで真っ暗だと眠れないんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ……落ち着かなくて心細い」
これは彼女に合わせるための嘘ではなく本当のことだ。
夜寝る時は決して真っ暗にはせず、ぼんやりとした豆電球の下で眠っている。
部屋を暗くして眠ると、子供の頃の不安だった夜を思い出してしまうからだ。
両親が帰ってこなかったあの夜のことを──。
「いい歳をして情けないだろう?」
「そんなことないと思う」
詳しい理由を説明しなかったが、水香は雅実を否定しなかった。むしろ安堵の感情も交ざった優しい笑みを浮かべてみせる。
「暗い中で眠れないのは、私も同じだしね」
「……気が合うな」
「だから、そう言われると微妙な気分」
水香は苦笑しながらベッドに横たわる。
体型からすると広すぎるのか、少し落ち着かないようだ。薄灯りの中、もぞもぞと位置を変える彼女を眺め、雅実も床に敷いた毛布の上に寝転んだ。
さすがに寝心地は悪かったが、眠れないということもない。
「ねえ、雅実」
目を閉じると同時に、水香の躊躇いがちな声が聞こえてきた。
「どうした?」
「雅実……よく私に『寂しいから』って言うけど、それって嘘でしょ?」
不意に投げかけられた質問。
わずかに心が揺れたが、目を閉じたままできるだけ平坦な口調で答える。
「嘘じゃない。このオッサンは寂しがり屋なんだ」
「……本当に? 私に気を遣ってるんじゃなくて?」
「生憎と、甲斐性のない俺は自分のことで精いっぱいだ。あと、豆電球をつけないと心細くて眠れないというのもマジだ」
半分は嘘で、半分は事実。
納得したのかどうか分からないが、水香は「そっか」と小さく呟くように言った。
──歳下の女の子にバレてるようではまだまだだな。
自嘲しながら話題を変えるための言葉を探す。
「水香、明日は休みだが……なにか予定はあるのか?」
「特にない。家に戻って、いつも通りお母さんのご飯を作るって感じかな」
「臨とどこかへ出かけたりはしないのか?」
「いつも忙しそうだからね。たまに時間を作ってくれる時もあるけど……疲れてるみたいだから、ちょっと申しわけない感じ。仕事のない時は家で休んで欲しいから」
「……………………」
どうやら、想像していた以上に親子の時間を持てていないようだ。
以前、臨から「娘に対して罪悪感を覚えている」と聞かされたことがある。彼女は彼女なりに精いっぱい頑張っているのだが、どうしても行き届かない部分もある。
夜はひとりにさせているし、家事もすべて水香に頼りきりだ。
母親としては心苦しい限りなのだろう。
だが、水香はそのあたりをちゃんと理解している。友達と遊びたいであろう年頃なのに、わがままや文句も言わず、臨を支え続けているのだ。
「あー、水香は知ってると思うが、俺も休みの日は特に予定がない。暇だ」
「……どうしたの、急に?」
「だから、俺でいいというのなら……どこかへ遊びに行ってもいいぞ」
気付くとそんなことを口にしていた。
しっかりと言葉を纏めてから話しかけたわけではなかったので、なんだか安っぽいナンパでもしているような感じだ。妙に気恥ずかしくなってしまう。
「そりゃ、家でゴロゴロしているよりはいいけど」
「少しくらいの遠出でもいい」
「……変なわがまま言うかもよ?」
ベッドの上で身体を起こした水香の声が、少しずつ期待に膨らんでいくのを感じる。
できることなら、その「わがまま」を聞いてやりたいと思っての提案だ。
「俺が応えてやれることならな」
「じゃあ……暇な雅実と一緒に出かけてあげようかな」
水香はクスッと嬉しそうな笑い声を漏らす。
「でも、どこへ行くの?」
「そうだな……」
不意に思いついてのことだったので、改めて問われると困ってしまう。
あれこれと考えた末に思いついたのは──。
「水族館とか、どうだ?」
「なんの伏線もない場所だね。どうして水族館なの?」
「出かける場所としては定番だろう」
昔、臨が言っていたことを思い出し、そう説明する。
「水族館では嫌か?」
「ううん、行ったことがないから見てみたい」
水香の言葉は少し意外だった。
一度くらいは臨が連れて行ったかと思っていたのだ。
「でも、着替えもないし、お母さんのご飯も作らなきゃならないから……」
「だったら、一度水香の家に戻ってからだな」
「うん」
「そうと決まったら、さっさと寝るぞ」
「はーい。おやすみ……雅実」
「おやすみ」
改めて目を閉じると、水香がごそごそとベッドに潜り込む気配がした。
誰かに「おやすみ」と言うのは、いつ以来のことだろうか。
妙な安堵感を覚え──なんだか今夜は、いつもよりぐっすりと眠れるような気がした。
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